高北謙一郎の「物語の種」

読み物としてお楽しみいただけるブログを目指して日々更新中。

朗読イベント終了

さて、昨日はスタジオプロモーション企画のひとつ、朗読イベントだった。

 

当初はモデルさんに朗読をお願いしていたのだが、体調不良により延期。代役として急遽、私自身が朗読することになった。

 

いやはや、久々の朗読であった。

 

 

以前は柏のジャズバーで7年にもわたって続けていた朗読だが、ここ1、2年はお休みしていたのだ。

 

ちょっと風邪が完治しておらず途中で声が掠れてしまったりもしたが、これまでとは違うスタジオという空間での朗読は新鮮だった。

 

朗読作品はふたつ。そちらも自作だ。完全書き下ろしと、昨年の作品を手直しした。

 

今回は、「せっかくフォトスタジオで朗読するんだから、『写真』をテーマにした作品にしよう」との思いがあった。そして、「せっかくなんでスタジオの入っているビルの歴史を物語中に取り込んでしまおうではないか」との狙いもあった。

 

はい、そんなわけで今日のblogはそちらの原稿をご紹介。完全書き下ろしの方ね。

長いので、暇な時にでも読んでやってください。

 

 

 

   【ある写真家の息子】          高北謙一郎

 

 

 それは、とても古いビルだった。階段は狭く、うす暗かった。一歩一歩、慎重に足を運ぶ。
 

 湿った空気は堆積した時間のように、建物の内部に折り重なっていた。
 

 コンクリートの壁面に反響する自分の靴音に、思わず足を止める。ひとの気配は、まるで感じられない。ふり返ると、さっきまで全身を覆い尽くしていた夏の午後が、ずいぶんと遠くの世界のように、小さな出入口に切り取られていた。鮮やかな色彩と灰色の世界のコントラスト。まだほんの数歩しか進んでいないのに、彼は自分がもう、あと戻りのできない場所に迷い込んでしまったような、そんな気がしていた。
 

 まさか自分がこのビルを訪ねることになるなんて、考えてもみなかった。彼はひとつ肩を竦めると、ふたたび階段をのぼりはじめる。二階にあるふたつの部屋の扉は、きっちりと閉ざされていた。やはり、この建物には誰もいないのかもしれない。
 

 ひとひとり通るのがやっとという階段の踊り場を反転すると、うす暗さが増した。目的の部屋は、三階にあった。左右に部屋の扉が見える。どちらも古びた茶色い鉄の扉だ。とはいえ左側の部屋は、確かめずとも使われていないことが分かった。扉にノブはなく、その四辺も養生テープで覆われていた。彼は右側の扉に手を伸ばした。同じく誰にも使われていないことは容易に想像できたが、こちらの扉はまだ、扉としての役目を果たしていた。ノブを捻ると、軋んだ音とともに、ゆっくりと開いた。

 

「むかしはね、女たちがここで休んでいたんだよ」

 

 と、昨日そんな話をしていた不動産屋の言葉が、ふいに思い出された。廃墟を思わせる荒んだ部屋が、目の前に現れた。うす汚れた壁紙が、所々で剥がれている。剥き出しになった壁面からは、朽ちた内部の構造が覗いていた。天井からは照明の配線がぶら下がり、足もとの絨毯は擦り切れて元の色さえ判別がむずかしい。
 

 かつてこのビルは、風俗街の一画を成していた。付近一帯に林立したそれらの店々と同じく、多くの女たちがこのビルに集い、男たちが訪れた。しかし時代の推移とともにそれらは廃れ、今では誰も寄りつかないゴーストタウンと化していた。
 

 彼は近くにあった照明のスイッチに手を伸ばす。しかし当然のことながら、それによって部屋が明るくなることはなかった。電気など、疾うに止められている。以前は店で働く女たちの控室だったというこの部屋も、往時の面影を見出すのはむずかしい。それでも幾重にも連なる蜘蛛の巣を払いながら、部屋の中に歩を進める。奥の曇りガラスの窓に近づき、その建付けの悪いサッシを力任せに開く。頭上から、ボロボロと落ちてくる小さな塊となった埃に、顔をしかめる。汚れや埃によって光が遮られていたのだろう、窓を開けた瞬間、眩い夏の陽射しが部屋を照らした。
 

 微細な粒子が静かに空気中を漂う様子が見える。まるで、予期せぬ部外者に部屋全体がひっそりと息を潜めているようだ。

 

「なるほど、そこか」

 

 ふり返り、彼は部屋の隅にあった小さな椅子に目を留めた。背の低い、スツールだった。埃によって白茶けて見えるが、おそらく木目のうつくしい丸い座面を持つ、堅牢な作りの椅子に違いない。彼はおもむろに、ズボンのポケットから一枚の写真を取り出した。
 

 古い、モノクロームの写真だ。うつくしい女がひとり、窓辺に佇んでいた。背の低い、木製のスツールに腰かけた女は、物憂げに窓の外に目を向けている。季節はいつ頃なのか、今と同じく強い陽射しが部屋の中に濃い陰影を作っていた。
 

 写真がこの部屋で撮られたことは間違いない。女が座っていたのは、目の前にあるその椅子だろう。ゆっくりと、足を踏み出す。そのまま椅子の方へと近づいた。

 

 写真家だった父が亡くなったのは、先月のことだ。まだ五十代も半ば、早すぎる死だった。子どもの頃の彼にとって、父との暮らしは旅とともにあった。母の顔は知らない。早々に愛想を尽かされたのだと言って父は笑ったが、そのポケットに忍ばせた写真の存在を彼は知っていた。
 

 とはいえ、彼が自分からその写真を見せてくれということはなかった。そこに母が写されているであろうことは想像に難くなかったが、今さら母の顔を知ったところでどうすることもできなかったし、たとえ万が一にも見つけ出すことができたとしても、自分の生活が変わるとは思えなかった。物心ついた時からずっと行動を共にしている父との関係は、もはや自分の身体の一部といってもいいほどに、分かちがたく結びついていた。
 

 そんな父が病に倒れた。倒れた時にはもう、手の施しようもない状態だった。職業柄、過酷な環境に身を置くことは多かったが、そのぶん自らの健康には充分すぎるほどに気を配っていた父が、まさか病気で倒れるとは。彼にとってそれは青天の霹靂とも呼べる出来事だった。

 

「お前は自分の母さんについて、知る必要がある」

 

 病床の父が告げた言葉だ。いちどとして彼に見せることのなかった写真を手渡す。そこには、父の情熱によって焼き付けられた、ひとりの女の姿があった。これまで語られることのなかった父と母の出逢いと別れが伝えられた。それはとりたてて情熱的な恋愛譚ではなかったが、彼の心の中に、鮮やかに当時のふたりを刻み込んだ。
そして父が亡くなった後、彼は写真に残されたこの場所を訪ねた。何かを求めたわけではなかったが、何かが彼を動かした。こうして目的の場所に辿り着いた今、彼は自らの行動の意味を理解した。そこにはまるで、母の残像が生き続けているように思えたのだ。

 

「はじめまして」と、彼は言った。自分の母親に対して間の抜けた挨拶だと思いつつも、それ以外の言葉を持ち合わせていなかった。「はじめまして。母さん、父が亡くなりました」

 

 うつくしい女の姿が、彼の目には映されていた。窓の外に顔を向けていた女は、初めて彼の存在に気づいたかのように、その表情を綻ばせた。「おや、久しぶりじゃないかい」

 

 初めて聴く母の声だったが、初めてとは思えなかった。彼はもういちど、ゆっくりと告げた。「父が、亡くなりました」

 

「分かってるよ、そんなことは」と、目の前の女は言った。「それはあのひとが自分で言いに来たよ。ずいぶんと渡り歩いてきたみたいじゃないか。あんたを連れまわしちまったって、少しだけ反省してたみたいだよ。少しだけどね」

 

彼は小さく微笑んだ。「父との生活は、楽しかったです」

 

「だろうね。あんたはもともとあの人に似ていたからね」女は肩を竦める。

 

 自分と母の歴史を知らない彼にとって、その言葉をどう受け止めるべきか、判断に迷う。彼は己の内側にわだかまる想いを押しとどめるように静かに息を吐くと、ふたたび口を開く。「だけど、そろそろボクは身を落ち着けようと思います」

 

「へぇ、そいつは意外だね」さも驚いたという表情で彼を見る女。「どうしようっていうんだい?」

 

「ここに・・・、ここに、スタジオを作ろうと思います」彼は部屋を見まわす。「世界を旅してまわった写真家の息子は、ひとつの街に留まり、ひとつの街に行き来するひとびとの写真を撮りたいと思います」

 

「それじゃ、まるでこの街の女たちと変わらないじゃないか。わたしみたいな女たちと」

 

「それは、いけないことですか?」彼は口もとに笑みを浮かべる。

 

 女もまた、その口もとに笑みをかたち作る。「いや、悪くないんじゃないのかい? もっとも、わたしにそれを見届けることはできないだろうがね」

 

 

 

 数分後、古びた椅子の上には一枚の写真が置かれていた。そこにはもう、母の姿はなかった。かつて女たちの控室として使われていた、無人の部屋だけが写されていた。
彼は父の最期の言葉を思い出す。

 

「あいつを、解放してやってくれ」

 

 彼は誰もいない部屋をあとにした。明日から生まれ変わる、その部屋を。

                 
   

                                   《了》