二宮金次郎の悲劇
先日、たまたま電車の向かい側に座ったおじさまが読んでいた新聞で、そのお姿を拝見。
で、ふと思い出した。
そういや、金次郎像が各地の学校から撤去されるようになってもうずいぶんと経つな、と。
そもそも、今の子どもたちは金ちゃん(馴れ馴れしい)のことなんて知らないのかもしれない。
それくらい、呆気ないほど簡単に彼は歴史の闇へと葬り去られた。
元祖「ながら歩き」の罪人として。
たしかに冤罪ではない。彼は背中に薪を担いで先を急いでいるにもかかわらず、本なんぞに夢中になっている。危ないことこの上ない。
かくいう私も、子どものころ彼の像を見て、「なんて効率の悪いヤツだろう」、と思ったりもした。彼を見るたびに、「二兎を追う者は…」云々のことわざが脳裏をよぎったものだ。
だが…。
だが、しかし、だ。
ケータイの「ながら歩き」が社会問題となって久しい今日このごろ、子どもたちに良からぬ影響を及ぼす、なんて理由で撤去されたのでは、いくらなんでも金ちゃんだって浮かばれない。
分かっている。いや分かっている。いかに世の中の流れに疎い私でも、いまや訳のわからぬ「保護者」とやらが絶対的な発言権と権力を有していることぐらい、言われなくても分かっている。
そんな中の誰かから、
「あの二宮くんさ、ちょっとアレ、教育上いかがなものかと思うんだよね。ながら歩き、助長しちゃうよね」
なんて言われた日には、誰も逆らえないであろうことも分かっている。
だが、それでもなお、
私はそこに、憤りを覚えるのだ。
だいたい、ながら歩きは金ちゃんのせいではない。あれは一部の、コウモリ的な超音波を発してエコーロケーションなる能力を発揮できる者たちのみが行っていることだ。
まず、彼らを葬り去らなければ始まらない。
彼らに、その能力の信憑性について問わなければならない。
ホントにオマエ、そんな能力あんの? と…。
そうなのだ、子どもに悪影響を与えているのは金ちゃんではなくコウモリ人間たちだ。撤去すべきはコウモリ人間たちなのだ。
もちろん、それが至難のワザであることは分かっている。なにしろ彼らには周りが見えていない。彼らにとって周囲の人間たちはただの障害物であって、たとえ周囲の人間たちが迷惑そうな顔をしていようが、関係ないのだ。
それでも、金ちゃんを撤去しただけで何かをやり遂げたつもりになってしまうよりは、コウモリ人間をひとりでも減らす努力をすべきだと思う。
絶対的な数が減れば、おのずと真似をする子どもたちも減る。そう思うのだ。
とはいえ、では私に何が出来るのだろうか?
正直、出来ることは少ない。
私に出来ることは、いわれのない言い掛かりによって葬られた金ちゃんの末路を愁い、その哀れな結末を語り継ぐこと。
そしてもうひとつ、
今この文章を歩きながら見ている者がいたら、今すぐ端に寄って、立ち止まって続きを読んでくれっ!
…ふう、無事にまとめたな。
何にも考えずに書き始めちまったんで、どうなるかと思った。人類の存亡をかけた戦いに挑むかのような語り口になってしまった。
そして思えば、コウモリ人間はスマホの画面も見えないんじゃね? なんて突っ込まれたら、ここまで書いたことがすべて水の泡と帰すことに気がついた。
どうかそのへんは、おおらかな気持ちでお願いしたい。
以上。おしまい。