高北謙一郎の「物語の種」

読み物としてお楽しみいただけるブログを目指して日々更新中。

清水公園

さて、昨日は夕方になって清水公園に撮影に出掛けた。当然、目的は短期集中型撮影企画として、あじさいを狙いに行ったわけだ。

 

まだ早い。慌てることはない。

 

そう思いつつも、とりあえず「もしかしたらいい絵が撮れるかも」との期待も少しはあって出掛けた。

 

が、

 

やっぱり早い。

 

ほとんどない。というか、ほぼまったくない。

 

困ったな。

 

この前も大宮第2公園で失敗してるしな。

 

あんまり連発して空振りに終わりたくないな。

 

というわけで、あじさいにはこだわらず、絵になりそうなものがあれば何でも撮ろうと、そう切り換えて歩きまくった。

 

 

しかしまぁ、そんな場面に出くわすことも少なかった。

 

そもそも、「絵になる」とはなんなのか。

 

例えば、日常の言葉のやり取りの中でも、「絵になるねぇ」という言葉を口にすることもあるとは思うが、そういう瞬間って、頭のなかに本当に「絵」が出来上がっているのだと思う。それは無意識かもしれないし、普段の生活のなかでは実感できないかもしれないが、直後にファインダーを覗いた時のみ、明確に認識できる。なにしろ「絵になる」と思って頭のなかでイメージしていた景色が、目の前に実物としてあるのだから。

 

 

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清水公園にて photo by takakita

 

 

だから写真において私が「絵になる」という場合、まず頭のなかにひとつの「絵」が思い描けていること、そしてそのイメージ通りの「絵」が、ファインダーを覗いた瞬間に、キチンと「絵」としてそこに収まっていること、そのふたつの像が重なった時、ひとつの「絵」は完成する。と、そんなふうに考えている。

 

おぉ、なんか私、スゴいひとっぽい!

 

 

 

で、そんなこんなで清水公園

 

 

少ない…。

 

 

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清水公園にて photo by takakita

 

 

どうしようかなぁ…。

 

 

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清水公園にて photo by takakita

 

暗くなってきたなぁ。

 

 

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清水公園にて photo by takakita

 

 

そろそろ諦めて帰ろうかなぁ。

 

そう思った瞬間だった。

 

「あ、あった」

 

 

そう、あったのだ。小さいが、あじさいが。

 

 

しかもそれは、水辺に咲くあじさい。水面には、夕暮れ迫る空の色合い。そして幾本かのあじさいの中に、ひとつだけ、色彩を帯びた1輪が。

 

「これだ!」

 

 

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清水公園にて photo by takakita

 

 

 

私は突如としてシャッターを切りまくった。メインとすべきあじさいとその他のあじさいが重ならないように、位置を調整。横構図、縦構図、画角の模索、水辺の奥に浮かぶ蓮の葉を入れるかどうか、ストロボ、使う?

 

 

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清水公園にて photo by takakita

 

 

…様々な微調整を繰り返し、完成度を高めていく。ファインダーを覗いた瞬間に出来上がっている「絵」はあるのだ。あとは微調整に微調整を繰り返すのみ。

 

「出来た!」

 

 

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清水公園にて photo by takakita

 

 

 

まるで天空に浮かぶようでもあり、水底から空を見上げるようでもあり…明らかに、それ以前に撮っていた写真とは違う。と思う。

 

 

これだよこれ!

 

あぁ良かった。

 

こういった写真にかんしては、花が満開かどうかなど関係ない。これこそがベスト。

 

と、自己満足しまくっている。まぁ、正直うえの3枚、どれも好きだけど。

 

 

ふぅ…。

 

やれやれ、なんとかひとつはモノにすることができた。

 

こうしてわずかではあるが満足を得た私は、帰りの電車に乗り込む前に、近所のラーメン屋さんでビールを飲むことが出来ましたとさ。メデタシメデタシ。