高北謙一郎の「物語の種」

読み物としてお楽しみいただけるブログを目指して日々更新中。

写真と書き物

そういえば、どうして物書きメインの私が写真を撮っているのか、書いたことがなかった。ような気がするから書いておこうと思う。

 

いくつか理由がある。

 

 

物語を執筆する際、私が頭の中に思い浮かべるのは映像的なイメージだ。映像を文章に置き換える、あるいは映像を文章に翻訳する、といった感覚だ。

 

では、それをダイレクトに映像で表現したらどうか?

 

と、そんな興味から始めたのが写真だ。

 

もちろん、動画というか、映画にも興味はあった。しかし、写真に比べるとまるで馴染みがなかった。周りにそれを撮っている人間がいなかった。

 

そして私の思い浮かべる映像的なイメージは、基本的には単発的な1枚の絵だ。その1枚の絵をいくつもの場面として幾枚も繋げながら物語にする。最初は脈絡もなく並べられた複数の絵にしか見えない。しかし、それがどんどん枚数が増えて緻密になっていくと、静止画から動画になる。

要は、パラパラ漫画みたいな感じだ。

 

 

だから逆にいえば、単発的な作品としては動画よりも静止画、つまり写真の方が適していると、そう判断したわけだ。

 

 

先に言っておくが、私が頭の中に映像的なイメージを思い浮かべるのは、あくまでも作業である。よく自称アーチストが、「天から降ってくる」的な発言をしているが、少なくとも私はそんな経験はない。キチンと、「さぁ始めようか」と自分に言い聞かせてから思い浮かべる。

 

 

だから、写真を撮る際もキチンとイメージを思い浮かべてから撮影している。ある意味では、それは写真を撮る上でも大事な要素だったのだが。

 

 

 

そして写真を撮るようになって分かったのだが、「ダイレクトに表現する」ということは、「文章に翻訳する」ことに比べて遥かに手っ取り早かった。

 

考えてみれば当然のことだが、写真1枚で伝えられる情報量と、それを説明するために擁する言葉の量は桁が違う。

 

楽しかった。

 

 

そう、楽しかったのだ。

 

 

それまで部屋に引き込もって文章を書き連ねていた生活から外の世界に飛び出し、しかもそれがどんなに時間がかかっても数日中には完成する。

 

文章だと数ヵ月、ヘタをしたら数年もかかるものが、短期間でカタチになる。こんな楽しいことはない。

 

加えて、撮影した写真はそのまま参考資料としても活用できた。たんに描写として参考になることもあるし、数枚の写真を並べることで、これまで物語を作る際に頭の中で行っていたことを机の上で現物を手に出来るようになった。スバラシイ。

 

 

…とまぁ、そんなこんなで私の撮影作業は始まった。もちろん続けていくうちに、文章でしか表現できないもの、写真でしか表現できないもの、という違いにも気づくことになる。だからこそ、現在でも両方とも続けているのだ。

 

 

ずいぶんと長々と語ってしまった。

 

 

最近、写真をこちらに載せることで多くのかたに見てもらえるようになってきたのだが、そもそも誰も私のことなんて知らないだろうし、「コイツ誰?」というかたばかりだろうからちょっと自己紹介も兼ねて書いてみた。私は物書きだが写真も撮る。

別に、将来的にナンパをしようとして「あなたなんか知らない」といわれたくないから説明しているわけではない。

 

 

本当に、励みになるのです。感謝。