松濤美術館
昨日は秋葉原に撮影に出かけていたのだが、その後、渋谷に流れて松濤美術館に赴いた。正確には渋谷から井の頭線でひとつ隣の神泉(しんせん)という駅が最寄だ。
まったくもって帰り道が不安になるぐらい、住宅街を矢印看板に沿って進む。
これ、暗くなったらゼッタイ迷子になるヤツだ。
実は松濤美術館には、初めて訪れた。
前々から気になってはいたのだが、正確な場所が分からなかった。
よって、今回は頑張ったのだ。
もともとこの美術館には建築物として惹かれていた。
そして今回は、建築ツアーが開催される、との情報を得ていたのだ。
なら行ってみよう、となるではないか。
とはいえ、ひとつ心配があった。
秋葉原での撮影は15時には終わった。しかし建築ツアーは18時から。秋葉原と渋谷では、移動にたいした時間は掛からない。
オマケに帰りはともかく、行きは看板の案内でまったく道に迷うこともなかった。
そう、時間をもて余してしまうのだ。
一縷の望みは、開催中の企画展がなかなか面白そうだったこと。こやつでタイクツせずに建築ツアーまで過ごせればいいのだが…。
「終わりのむこうへ 廃墟の美術史」
廃墟に惹かれる方はわりと多いと思う。
私もそのひとりだ。
かつて誰かがそこに暮らし、そして今は誰もいない。
ただそれだけのことが、どうしてこれほどまでに惹きつけるのだろう?
朽ち果てた建物や、緑に浸食されようとしている街を見ることに、なぜそこまで魅了されるのだろう?
けっきょくのところ、規模の大小は違えど、“失われた楽園”的幻想が、我々をそこに引き寄せているのではないかと思う。かつての繁栄に想いを馳せること、それが一瞬にして失われる悲劇、栄枯盛衰の果てに淘汰される文明のカタルシス…
なんだかカッコよく書き連ねてしまった。
いや単にね、お化け屋敷に入るのと同じ、怖いもの見たさじゃない?
と、全部ぶち壊したところでサッサと話を進める。
企画展の話だ。
むかしから「廃墟」をテーマにした作品は、絵画の世界ではひとつのジャンルと成り得るほどの人気を獲得していたが、この企画展ではそういった古今東西の画家たちの作品が集められている。
中でも興味深かったのは、ポール・デルヴォーの作品が6点も展示されていたこと。
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大勢の女性たちが描かれている。描かれていない作品などない。にもかかわらず、その背景の街、建造物は、どれも廃墟を思わせる。
私も大好きな画家なので彼の作品は多く見ているが、またなにかこれまでとは違う視点で接することができた。
そしてさらに個人的に嬉しかったのは、現代作家の中では唯一といってもいいぐらい好きな、大岩オスカール氏の作品が展示されていたこと。
もう十年近く前になると思うが、清澄白河の現代美術館で企画展が開かれた時、とんでもない衝撃を受けた。彼の絵も、たしかに廃墟の匂いが溢れている。
今回もまた、魅力ある巨大な作品が展示されていた。
ふたつの作品が表裏をなすように、壁の両側に展示されていたのだ。
いやはや、やるねぇオスカール! 完全に、参りました。
他の画家たちの作品でも、めずらしく現代の画家たちの作品に惹かれた。
彼らはまだ廃墟となっていない現代の建物、そして街を、廃墟として描いていた。
まるでそれが、いずれおとずれるであろう未来を暗示するかのように。
それはものすごく想像を掻き立てる景色で、こちらもずいぶんと刺激を受けた。
さて、ここまで褒めちぎっているのだから、当然18時の建築ツアーまでの時間なんてあっという間に過ぎ去ったものと、そう思うだろう。
しかし、そうはならなかった。
なんといってもね、撮影現場からそのまま美術館に入ったのだ。
重たい撮影機材を、ずっと担いでまわっていたのだ(心配すぎてロッカーに預けられない)。
いやはや、疲れた。
時計を見ると、まだあと1時間もあるというありさま。
帰ろう。なんだかんだで、作品を観てまわる間に建物の中もずいぶんと歩いたし、もう美術館の場所はわかったからまた来ればいいんだし。
というわけで、私はそそくさと美術館をあとにした。
まだうっすらと夕陽の色が残る空に安堵の息を吐きつつ、
うろ覚えの記憶をたよりに、神泉の駅に向かったのであった。
おしまい。