高北謙一郎の「物語の種」

読み物としてお楽しみいただけるブログを目指して日々更新中。

エッグ・チェア

1点豪華主義に走るなら、エッグ・チェアが欲しい。

 

と、唐突に思った。

 

エッグ・チェア…目にしたことのある方も多いだろう。あの、包容力いっぱいのハンプティ・ダンプティみたいな椅子のことだ。

 

レザー仕様か布張りか、などによっても値段は変わるが、私の知るかぎり、安くても20万はする。革張りに至っては、70万前後だったか。おそらく、もっと高値のモノもあるだろう。

 

コヤツが欲しい。

 

だだっ広い部屋のど真ん中にコヤツを鎮座させたい。だだっ広い部屋のど真ん中に鎮座させるのに、これほど適したフォルムの椅子も珍しいと思う。そして私は、そこで本を読んだり音楽を聴いたり…ちょっとお酒を呑んだりも悪くない。

うん、なかなか優雅ではないか!

 

 

そういえば北欧などでは、お気に入りの椅子を各自が所有する、という文化が浸透しているらしい。寒い季節は外に出ることも少なくなってしまうので、自分のお気に入りの空間にお気に入りの椅子を置くというのが、ある種、自分にとってのご褒美ということのようだ。ステキではないか。

 

引きこもるなら、これくらい優雅に引きこもりたいものである。

 

とはいえ、現実的にはそんな椅子をど真ん中に置けるような部屋もないし、そもそもそんな椅子を買う余裕もない。

 

 

ニンゲン、手の届く範囲の贅沢ならばちょっとぐらいの無理もするが、それがあまりにも遠すぎると、もはや空想することに楽しみを見いだす始末。

 

20畳ぐらいあるスペースと高価な椅子。床は濃いめのブラウンのフローリング、壁は漆喰っぽい仕上げのややくすんだ白。天井には無駄に回ってるシーリングファン。庭に面した側の壁面は巨大な二重窓。逆サイドにポツンと、しかしスゲー音のいいオーディオ機器。

 

で、そんな空間のど真ん中にエッグ・チェア。

 

 

 

うん、カンペキ。

 

 

 

しかし、もはや1点豪華主義とは呼べないぐらい、周囲の環境も豪華になってしまった。

 

 

ここ数年で、よくミニマリズムなる言葉を耳にする機会が増えたように思うが、あれも決して質素な暮らしを標榜しているわけではないらしい。

断捨離なんてコトバとセットに考えられているフシがあるようだが、その本質はまるでちがう。

厳選したお気に入りのモノだけを身の回りに置く。要するに無駄なモノは置かない。というだけで、なんでもかんでも捨てちまってスッキリする、というのとはカンケーない。

つまりウラを返せば、部屋中こだわりの逸品がイッパイ、なんてことにもなりかねないのがミニマリズムミニマリストの住空間、とも言えなくもない。

 

 

ニンゲン、なかなか清貧生活なんてものは送れるものではない。

いや、私の現在の暮らしも金持ちのオジサマから見れば充分すぎるほどに清貧生活なのかもしれないが、私は清貧生活が送りたいわけではない。

ならば私が目指すべきは、一生モノの逸品だけを厳選しまくるミニマリスト、ということか。

 

…と、そう思ったとき、改めて我が部屋を見る。

けっこう不要なモノ、あるよなぁ。コヤツらを買わなければ、多少は値の張る買い物もできたのでは…なんて思ったりもする。

 

そして私は理解した。

 

手の届く範囲の贅沢ならばちょっとぐらいの無理もする。

 

これがすでにまちがいなのだ。手の届く範囲の贅沢をガマンして、手の届かない一生モノにまで手を伸ばす。これだ!

 

 

ということで、自分の欲しいモノを厳選してリストアップしてみようと思う。

 

まずはエッグ・チェア。それから自転車。それからクルマ。それからオーディオ(真空管アンプのヤツ)、それからライカのカメラ、ライカのレンズ、その他のレンズ、顔料インクのプリンター(A3ノビまでプリントできるヤツ)、染料インクのプリンター(顔料と同じサイズ)、机(プリンター2台を並べて乗せても余裕のデカイやつ)、私の代わりに売れ筋の小説を書いてくれる機械(そんなモノはない)、ソファ(2人掛け、色はターコイズブルーの革張り)、ローテーブル、大きな冷蔵庫、ここんとこずっと調子の悪い電子レンジ、炊飯器、ミキサー、電動ミル、食器、食器、食器…食器棚…あれ?

 

キリがない…

 

というかこれ、コヤツら入れるハコとか考えると…

 

一生かかっても揃えきれないかも!